17.由比宿〜興津宿



広重の浮世絵そのままだ!



2006.03.26.(日)  天気 : 曇り

2007.03.28.(水)  天気 : 快晴  (JR興津駅からJR由比駅まで、再び歩きました。)

※ 注意・・・「さった峠」の「さった」は、薩摩の薩と土へんに垂と書きますが、文字がうまく表示されない場合がありますので、ひらがなで表示しました。
由比宿〜興津宿の地図






泊まった「シーグランデ清水ステーションホテル」で朝食を食べるために最上階へ上り、窓の外を見ると雪の積もった富士山がドーンと目の前に見えた。今日は「さった峠」から絶景が見えると期待しながら「JR由比駅」を9時前に出発した。

駅を出て歩道橋を渡るが、後ろを振り返ると富士山の頂上付近が見えた。足取りは軽く、先へ進むと浮浪雲さんのサイトに出ていた時計台があった。

道を進むと右手に間の宿の寺尾にある脇本陣だった小池邸があった。現在の建物自体は、明治時代のものらしい。・・・小池邸は昔、甲州武田氏家臣が当地に移住し、江戸時代には代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めました。・・・

斜め向かい付近にあかりの博物館と言うのがあった。大正時代の建物で、わが国の「あかり」に関するものが展示されているらしい。

先へ進むと桜並木があった。後ろ振り返ると富士山と桜が同時に見えた。残念ながら写真写りが良くなくこのサイトで紹介できないが、外人さんが見たらとても日本らしく見える光景だった。
しばらく進むと右手に変な形で石が積まれていた。道祖神なのか?何かの石仏なのか?おまけにその石はコンクリートで固められていた。いったいこれはナニ???

小さな「寺澤橋」を渡り民家の中を進むと、左手に西倉沢の間の宿本陣跡があった。・・・ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間代々川島勘兵衛を名のり、間の宿の貫目改所(かんめあらためじょ)の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。・・・

また、「中二段澤倉澤橋」を渡った先の左手には脇本陣柏屋があり、「明治天皇御小休所跡」と書かれていた。

そしてその先に間の宿藤屋があった。ここは富士山の眺望がよいので「望嶽亭(ぼうがくてい)」と呼ばれた所だ。また幕末には「山岡鉄舟」をかくまった所としても有名だ。

その向かいには、倉沢の一里塚跡の石碑があった。江戸から数えてちょうど40番目の一里塚になる。また両側には「さった峠」の登る人の為だと思うが、杖をたくさん置いてくれてあった。

「一里塚跡」の先は急な上り坂になっていた。見ているだけで疲れてきそうな急坂であったが、気合いを入れて上り始めた。(左手が「望嶽亭」で坂の右手が「一里塚跡」です。)

坂は思ったとおりの急坂で、息が苦しくなかなか歩が進まない。道は自動車が一台通れるくらいの幅で、車が来たら道の端に立ち止まってやり過ごす。車が両側から来たらどうするのだろう?と思いながら歩いていたが、所々待避場所があった。
しかし両側はミカン畑となっていて、黄色いミカンを見ているだけで疲れが癒される様な気がした。

上るにつれ「駿河湾」が眼下に見えてきた。所々桜もあり、後ろには「富士山」も見える。ミカンの黄色、海の青さ、桜のピンクに富士山頂の雪の白さ・・・こんな綺麗な景色が見えるなら、息切れしても何度でも来たいと思った。ここで「足利尊氏」が弟と、「武田信玄」が「今川・北条」と戦った血生臭い場所とはとても想像できない。
坂も一段落すると、左手にさったじぞうみちと書かれた古い石の道標があった。

その先に四叉路が見えた。真っ直ぐ行くと「脇道」で通称「じぞうみち」と言うらしい。私は左折し「中道」「上道」となっている道へと進んだ。

すぐに駐車場やトイレがある休憩所があった。さった峠山之神遺跡と書かれた石碑が建っていた。ここからは、「富士山」と「駿河湾」が綺麗に見えた。
駐車場のベンチで休憩していると、同じように休憩されているご夫婦がおられ、ご主人とお話しをした。お二人は大阪から来られ、ご主人は2年前に東海道を歩かれたという。「さった峠」がとても良かったので、今回は奥さんを連れて来られたらしい。ご主人は東海道を歩かれた時の資料(パンフレット等)を見せて下さり、少しの時間だったが東海道談義に花を咲かせた。

旅の無事を祈ってくれたご夫婦と別れ、駐車場横の階段を下り先へと進んだ。少し先に木で造った「展望台」に上ってみた。

ここからの景色もとても素晴らしく、息を飲んでしまった。残念ながらモヤっているので「富士山」の写真写りが良くないが、道路や鉄道を除けば広重の浮世絵そのままの景色だ。江戸時代の人達も同じ景色を見ていたんだと思うと、タイムスリップをしたような錯覚に陥った。

この景色をもっと見ていたいという気持ちを抑えて先へ進むと、桜並木が待ち受けてくれていた。途中に休憩できる「休憩舎」もあった。

近くに「東海道さった峠」と書かれた「夢舞台東海道」の碑があった。そこにはクッキリと「富士山」が写った写真が載っていた。

その先を進むと下りの階段があった。木々に囲まれてうっそうとしているように見えるが、明るい所から暗い所を見ているだけなのでそう見えるだけだろう。地面は土なので雨の日は滑りそうな場所だ。

階段を下りかけて1分も経たない内に木々から抜け出した。東海道は墓地の中を通っているのだ。墓地の先にはトイレ付きの休憩所があった。私はそのまま舗装された坂を下り四叉路を左へと進んだ。途中で貰ってきたパンフレットや案内看板では「上道」となる右へと進むよう案内されているが、私は「中道」となる左を選んだ。(休憩所の後ろに見える青い屋根の小屋の前を通り、その後ろに見える小さな森のような所を左へと回り込むルートです。)

白髭神社と書かれた石柱の前を通り、「海岸寺」へ上る階段の横を通り過ぎると両側は民家で、すぐに左手に見えるJRの踏切を渡り、国道1号線の側道を歩く。しかし旧道はすぐ国道と別れ「興津川橋」へと続いていた。

ここは「川越し」があったところなのでその跡が分かるものが無いかと少し上流へ歩いたがそれらしい物が見当たらない。仕方がないので堤防に座っていたおばあさんに聞いてみた。丁度その堤防に接した公園があったが、その公園と道路の間にある「説明看板」がそれだと教えてもらった。
「どこへ行くのか?」と聞かれたため「東海道を京都へ向かって歩いている。」と答えると、おばあさんはこの先にある身延山道標の近くで・・・と誰も聞いていないのに自分の家の場所を説明し始めた。話しがながくなりそうなので、適当に返事をして(ごめんなさい!)「川越し」を想像しながら川の写真と説明看板を撮って「興津川橋」へ戻った。

右手には「JR東海道線」、左手には「国道1号線」が平行して走っている。興津川橋は、おそらく元国道1号線だったのだろう。旧東海道を歩いてきた私には、かつての大動脈の風格が感じ取れた。現在は交通量が少ないが、歩道が無いので注意して渡った。

川を渡ると右手に階段があった。そこを下り右(戻る方向)へと進み、道なりに左へ左へと180度曲がっていった。JR沿いに西へ進むと「興津川橋」からの道に再び戻ってくる。そして右折し興津宿へと進んだ。この道はこの付近から1号線となっていた。(静清バイパスではありません。)

350m程進むと右手に女体の森 宗像神社(むなかたじんじゃ)と書かれていた。名前が気になったので、境内へと行ってみた。森は普通の森で期待はずれ!?だったが、リュックを下ろし15分程休憩を取った。

街道に戻り200m程先まで歩くと右手に身延山道標等沢山碑が建っていた。ここは身延道の入口で、身延山参拝の道である。そう言えば、先程堤防で居られたおばあさんはこの近くで、ここから一人で歩いて来たと言っていたが1km以上ある。よくこんな所から歩いて来たなと感心した。沢山の碑を見ていると、何かの化身が私の為にここから来てくれたのだろうか?と一瞬不思議な気分になってしまった。

道標から少し先には一里塚址と書かれた石碑があった。「興津の一里塚」があった所だ。そろそろ12時だ。駅前には何か食べる所があるだろうと思い、「JR興津駅」に向かった。そんなに大きな駅じゃないので、小さな喫茶店らしき所で軽く食事をした。

食事を終え再び街道へ。交番を過ぎると右手に興津宿東本陣址の碑があった。

その先には興津宿西本陣址の碑も建っていた。
今日は峠越えなので気合いを入れて出発したが、「さった峠」は「箱根峠」に比べ、ずっと楽だった。この先箱根以上の峠は無い、だから京まで歩けると確信した。時間はまだ12時半、私は「江尻宿」へと向かった。



さった峠の景色がとても良かったので青春18きっぷを使い、2007.03.28.(水)JR興津駅からJR由比駅まで歩きました。今回は妻と一緒で前回とは逆コース、歩くルートも少し変えました。以下の写真はその時のもので、2006年に歩いた補足です。



年度末の休暇を利用し、再び「さった峠」行く事にした。「JR栗東駅」を5:56に乗り、「JR興津駅」に着いたのは、11:43。駅前にて二人で記念撮影をし、駅近くの「そば処小嶋屋」ですぐ食事をした。
興津橋を渡り、天気がとても良いので海岸まで行くことにした。下りる場所が分からなかったので近所の方に聞き、バイパス下を潜って海岸へ。東の方にカメラを向け綺麗な海を撮ってみた。

海岸から上道と中道・下道の分岐点へ戻る。「さった峠街道の歴史」と書かれた看板で今日歩く「上道」を確認し、二人で出発した。

興津川沿いに300m程歩くと「上道」は右斜め前へと入って行く。その道の左側にある「土地改良之碑」が目印だ。また右手の道路標識には「さった峠」と書かれた案内看板が取り付けられてあった。

そこからまた300m程進むと右手に瑞泉寺があった。

その少し先には「瑞泉寺」と彫られた石碑の様なものがあり、そこを右折して進んだ。(このルートでは始め「日蓮宗龍光山」しか見えない。)

100mとちょっと進むと三叉路になっていた。電柱にある「さった峠」の看板を頼りにここは右折した。

両側に民家が建ち並ぶ道を進むと前は土手。道は左へ90度曲がっていた。道なりに坂を上って行くとすぐT字路となっていて、カーブミラーの取り付けられた「さった峠登り口0.8km」の看板に従い右折した。

この先は300m程真っ直ぐな上り坂になっていた。途中に秋葉山常夜灯もあった。

このT字路を左折すると「さった峠」へ通じる。T字路から先は去年通った「中道」だ。(前の建物は前述の青い屋根の小屋です。)

T字路を左折した先も上り坂で、往還坂と石碑に書かれていた。この先は墓地になっている。(去年下って来た道です。)

去年撮影した「展望台」から再び富士山を撮ってみた。山頂は少し雲に隠れていたが、今回は快晴なので去年より綺麗に撮影できた。

「さった峠」を下ってから去年寄れなかった望嶽亭にお邪魔した。数年前にご主人を亡くされたと言う松永さんに詳しく説明をして頂きながら、中を見学させてもらった。
ここは「山岡鉄舟」が隠れた蔵屋敷の入り口だ。ここで逃げてここまで来たいきさつを、当時のご主人が伺ったらしい。

そして部屋の隅にある隠し階段で下に下ろし、薩摩の追っ手から舟で逃がしたらしい。ご高齢なのに松永さんは当時の緊迫した様子を生々と語って下さり、私たち夫婦は最後まで生唾を飲み込みながら聞き入ってしまった。

この銃は「鉄舟」が逃げる時に、ここに置いていったものらしい。松永さんは無料で説明して下さったので、亡きご主人が描がかれた絵が印刷されたお茶を買わせて貰いお別れした。
なお善意で展示されている貴重な品々を、勝手に持ち帰ってしまう不届きなヤカラがいるらしい。個人でしかも善意で展示されているので、厳重にはされていない。それをつけ込んで持ち去るらしい。とても腹立たしい事であるし、今後こんな事がまた起こるともう見学はさせてくれなくなるだろう。


由比宿〜興津宿の地図