蒲原宿〜由比宿の地図 |
お休み処で教えてもらった「よし川」と言う所で「桜えびのかき揚げ天丼」を美味しくいただいた。東海道へ戻る途中蒲原夜之雪記念碑へ寄った。場所は、そのお休み処から海より入った所だ。(京に向かって左側。)ここは安藤広重が保永堂版東海道五十三次の版画に描いた場所らしい。この蒲原宿の版画は、昔切手になった事もあった有名なものだ。
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記念碑の説明看板には、「広重が描いたと思われる場所」と書いてあるので、山の方(北方向)に向かって写真を撮ってみたが、「どうもしっくりこないな〜。」と思った。
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先程のお休み処付近まで戻る。「後でまた来ます。」と言ったが、先を急いだのでお休み処へは寄らず先へと進んだ。 100m程進むと御殿道と書かれた石碑があり、説明看板に・・・かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。ちなみに、寛永11年(1634年)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。・・・
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御殿道の石碑前には「高札場跡」があり、また斜め前には洋風の建物があった。旧五十嵐歯科医院で大正時代の洋館だ。江戸時代の東海道とは関係無いが、とても目を引かれる懐かしい感じの建物だ。
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300m程歩くと県道396号線に合流するが、この辺りに「西木戸」があったらしい。そこから約1700mでJR蒲原駅前を通過。そして約700mで頭の上を東名高速道路が横切っていた。ここまではただ歩くだけだった。高速道路を潜ると二又に別れているが、旧道は左側なのでそちらを進む。少し先の民家の傍らに一里塚跡の石碑が見えた。
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そしてその少し先は、道がクランク状になっていた。東海道でよく見かける光景だ。近くに説明書きがあり、由比宿東桝型跡と分かった。由比宿の東木戸があった場所だ。
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宿場内に入り、少し進むと御七里役所之趾があった。・・・此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸〜和歌山間584kmに約七里毎の宿場に中継ぎ役者を置き、5人1組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道・弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。・・・
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少し歩くと、右手に立派な門が見えてきた。由比本陣公園・東海道廣重美術館だ。ここは由比本陣跡で、現在は奥に広重の作品を中心とした有料の浮世絵美術館があった。美術館には入らず、門の横にある「東海道由比宿交流館」で休憩をさせてもらった。こちらは無料だが、それでも東海道の浮世絵関連の展示物がたくさんあり、とても楽しめた。
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一息入れた後、門の横を見ると溝川のようになっていた。馬の水呑場と説明書きに書いてあった。・・・この横の長い水路状の壕(幅1m、東西20m)は、馬の水呑場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところです。したがって水深も、もとは60cmもありました。・・・
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また本陣の前には、由井正雪の生家といわれている正雪紺屋があった。なお紺屋とは染物屋の事らしい。
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「正雪紺屋」の少し先には、黒い塀に囲まれた明治の郵便局舎跡があった。江戸時代の飛脚屋のなごりとなるものだ。
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その斜め向かいの方には、加宿問屋場跡と書かれた説明書きがあった。・・・ここは江戸時代に加宿11カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を設営したところです。加宿とは本宿に加勢を命ぜられた村のことです。・・・
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少し先の左手に面白い格好をした弥治さん喜多さんの人形が二体並んでいた。由比宿おもしろ宿場館で、地下に人形を使って昔の本陣を現しているらしい。(地下の見学は有料)
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右手斜め前方には、脇本陣羽根ノ屋と書かれた説明看板が民家の板塀に掛けられていた。・・・由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒ありました。そのうち江戸時代後期になるころ、徳田屋に代って、つとめたのがこの羽根ノ屋とおもわれます。・・・
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もう少し進んだ所に川が流れていた。由比川である。宿場はこの付近までだったらしい。橋の左側には古そうな常夜灯が残っていた。また、橋には広重の由比宿の浮世絵が描かれていた。 明日は目の前に見えている「さった峠」越えだ。足が疲れて重くなってきているが、さて無事峠越えができるのか???そしてほとんど曇って見えなかった「富士山」が見えるのか???不安と期待が入り交じりながら「JR由比駅」まで1.5km程歩き、「JR清水駅」近くのホテルへと向かった。
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蒲原宿〜由比宿の地図 |