15.吉原宿〜蒲原宿



道祖神は待っていた



2006.03.25.(土)  天気 : 晴れのち曇り
吉原宿〜蒲原宿の地図






昨晩は、近くのビジネスホテルに泊まり、夕食は近所の大衆食堂で済ませた。「天気のいい日は、富士山が見えるよ!」と言う食堂の女将さんの話を聞き、とても羨ましいと思った。さて今日は見えるかな!?
昨日のゴール地点の本陣(下本陣)前を通り商店街を西へ進む。上本陣を探すが、これまた今日も分からない。昨日見た看板では「富士見会館」と言う所らしいので、持ってきた地図を頼りにそれらしい場所で写真を撮った。(どうやら合ってるみたいだが・・・)

上本陣斜め前の銀行には、東海道の標柱が建っていた。それを頼りに左折した。

200mも行かない所に妙祥寺の題目碑があり、そこを右折した。

400m程進んだ所に西木戸跡の碑があった。吉原宿もここで終わりだ。「小潤井川」を渡ると国道139号線に出た。

少し南下すると、右斜めに道が見えた。先程の旧道から見ると真っ直ぐ続いている形だ。残念ながら昭和40年代の区画整理で今は旧道が途切れていた。その旧道をいつまでも忘れない様に旧東海道跡の碑が建っていた。

広い通りを渡り、その旧道を進む。約500mで五叉路の交差点。右から2本目の県道396号線を真西に進む。橋の手前を右に曲がる。(この文章を書いているのが、歩いてから約1年経っているので記憶が定かではないのだが、旧東海道と書かれた看板があったとメモに記入してある。)そしてすぐの十字路を左折し、「富安橋」を渡る。(昔は「三度橋」と呼ばれていたらしい。)
少し先の右手に、東海道を題材にしたサイトには必ずと言って良い程出てくる、東海道ウォーカーでは有名な!?道祖神が私を見つめていた。東海道を歩く人がいる限り、江戸時代からずーっといつまでも、旅人の安全を見守ってくれるだろう。

700m程進んだであろうか。間の宿であった本市場に鶴芝の碑が建っていた。・・・文政3年(1820年)6月に本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲(ろしゅう)が鶴をかき、江戸の学者亀田鵬斉(かめだほうさい)が詩文を添え、碑とした。・・・

碑の先は広い道で渡れないので、左に見える信号まで行き道を渡る。その先は交差している県道396号線を渡り旧道を進む。整形外科横の花壇片隅に旧東海道一里塚の石碑が花を邪魔しないよう遠慮して建っていた。

旧道を進むと平垣村の高札場があった「札の辻跡」を過ぎ、再び県道396号線へ。JR身延線のガード下を潜り、約300m進むと「左東海道」と刻まれた道標があり、その隣には慶応元年(1865年)に建てられた秋葉山常夜灯があった。
「左東海道」と書かれているが、こちらからだと右の旧道に入る。小さな川を渡った突き当たりを左へ曲がると、また先程の県道に出た。

県道を右へ進むと左手に明治天皇御小休所址の石碑があり、前方には緑色の富士川橋が見えてきた。

橋の手前右側は水神ノ森があるが、この付近は昔、富士川渡船場で、今でも当時のなごりで船場(ふなば)と呼んでいるらしい。水神ノ森には安全を祈願し「水神社」を祀ってある。
そして、その境内には冨士山道の石碑冨士川渡船場跡の石碑があった。

境内は日が陰っているので寒かったが、少し休憩をした。水神社の社前は通路になっているのか、座っている私の前を近所の方が何人か通り過ぎて行った。

富士川橋を渡る。天気は良いし、景色もとても良かった。昔は急流を渡し舟で渡っていたが、今は橋をのんびりと渡れるのでこんなのんきな事を言ってられる。

橋を渡りきる少し前で「富士川町」に入った。そして渡ったすぐの交差点を右折。ファミリーマートの手前の石段を登った。

階段を登りきり左折する。その先を右折し坂を登る。突き当たりを今度は左折し旧道を歩き続ける。旧道沿いにはいくつも常夜灯が建っていた。

小刻みに右・左と曲がった先には、黒塀に囲まれた小休本陣があった。ここ岩淵は間の宿で宿泊ができないため、一時休憩する施設として使われていたようだ。

しばらく歩くと道の両側に榎が植えられた立派な岩渕の一里塚があった。ここでは道が右に90度曲がっているが、カーブ外側の榎は昔からのものらしい。内側の榎は残念ながら虫害のため昭和42年に枯死し、昭和45年3月に二代目を植えたものらしい。

道を真っ直ぐ進むと車が沢山通る音が聞こえてきた。あれっ?そんな通りにはまだ出ないはずだ。地図を見ながら今来た道を戻る。電柱に目印としていた「中部電力」を案内する看板があった。どうやら地図を見ながら歩いていたので行き過ぎたらしい。改めて当初来た方向から右へ曲がって歩を進めた。(写真は東海道を歩いてきた方向から撮ったものです。左の電柱に「中部電力→」とあり、行き過ぎると右手に郵便局があるので歩く方は参考にしてください。)

中部電力の前を通り、東名高速道路の手前の休憩施設で10分程休憩。そして高速道路を潜ってすぐの所に野田山不動明王の道標があった。その場所を左折するとパトカーが止まっていたが、何も止められなかったのでそのまま進む、交通事故でもあったのだろうか?と考えながら道なりに歩いて行った。

道標から800m程進むと新幹線が走っていて行き止まりの様に見える。工事のためなのか、車が2〜3台止まっていてよく見えなかったのだが、何やら降りる階段が見えた。どうやら人だけガード下を潜る事が出来るようだ。歩いている途中に新幹線が轟音を立てて上を通り過ぎないか思いながら無事潜り抜けた。でも、昔の人が目の前を猛スピードで走り抜ける新幹線を見たら、腰を抜かすだろうな〜。

明治天皇御駐輦之趾の碑を見て進むと東名高速道路が左側に見えた。先程のパトカーと思われる車が前からゆっくり近づいてきた。リュックを担いだ変なおじさんが一人で歩いているので、不審に思われたらいけないと思い軽く会釈をしたら、乗っているお巡りさんも会釈してくれた。すぐにある高速道路の陸橋を渡る。私の住んでいるマンションは名神高速道路沿いなので、家まではこの道一本道で今日中に帰れるのか〜と不思議な気分になった。

陸橋を越えると下り坂で目の前に、空の青さより濃い青色の綺麗な駿河湾が見えてきた。更に下ると海は見えなくなってきたが、左手に光蓮寺の建物と桜が見えた。坂を下りきると突き当たりを右折。小さな川を渡ってすぐの左側にお稲荷さんと共に一里塚跡があった。・・・最初の一里塚は、元禄12年(1699年)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここの移られた。・・・と説明されていた。

少し先の右側に桜海老も描かれている北条新三郎の墓の案内石碑があった。平成8年と刻まれているが見た目は江戸時代から建っている様な感じだ。・・・永禄12年(1569年)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。城主北条新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられています。・・・

人しか通れない狭い上り坂を登って行く。とても急なので息が切れる。やっと北条新三郎の墓にたどり着き写真を撮影しているとケイタイがなった。午後1時前なのでお昼を食べたかと、妻が心配して電話してきてくれたのだ。しかしいきなりハアハア言いながら電話に出たら妻はビックリするだろうと思い、平静を保とうと思ったがやっぱりダメだった。事情を説明しながら蒲原宿で食事をする予定だと伝え、電話を切った。

坂を下り街道へ戻る。少し先の右手に常夜灯が見えた。ここは東木戸跡で東見付の事である。ここでまた少し休憩をした。

少し歩くと大きな鉄管が右手の斜面に4本見えた。日本軽金属の発電所送水管らしい。

大きな鉄管をめずらしそうに眺めながら進むと、左手の少し奥まった所に古い三階建ての建物があった。江戸時代末期に問屋職を代々務めた渡邊家土蔵(三階文庫)で、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具(しほうよろび)」という耐震性に優れた技法で建築されているらしい。

右前方には古そうな岩戸山道標も見えた。

その少し先には元「佐野屋」という商家であったなまこ壁と「塗り家造り」の家が建っていた。・・・「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれています。・・・

また、その先の民家の前に問屋場跡があったと書かれている説明看板が建っていた。

そのまま歩くと「お休み処」という看板が見えてきた。中を見せてもらえる様だったが先客の方がおられたし、午後1時半を回っていてまだ昼食を済ませていなかったので、美味しく食事ができる店を教えてもらい、「後でまた来ます。」と言って立ち去った。隣には旅籠「和泉屋」と説明看板に書かれていた。江戸時代の上旅籠だったらしい。

斜め向かいを見ると、黒い板塀で囲まれた本陣跡があった。・・・ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより100m程東に東本陣(多芸[たき]本陣)もありました。・・・


吉原宿〜蒲原宿の地図