14.原宿〜吉原宿



本陣が分からない!



2006.03.24.(金)  天気 : 曇り
原宿〜吉原宿の地図






本陣跡の先に信号があり、左折すると「JR原駅」だ。5分間の小休止をし、先程の信号から続きを歩く。すぐ先に富士山の霊水と書かれた「高嶋酒造」があり、水を少し頂いた。自噴井戸の水らしいが富士山から年月を重ねて流れてきた水なので、しみじみと飲ませてもらった。

しばらく歩くと左手に、鉄板に一里塚跡と書かれた石碑があった。
その後は、ただひたすら歩き続けた。この辺りには食べる所が無いだろうと思い、前もって調べておいた「桃里」と言う所にあるホームセンターへ行き午後1時前、軽く食事を済ませた。

再び東海道に戻り約1km行くと、JRの踏切を左へ渡る。そこから500m〜600m歩くと三叉路になっていて、左からの道と合流していた。ただ一本道を歩くだけだと飽きてくるが、少し変化が出てきたので気分的にホッとした。
500m程で右手に「JR東田子の浦駅」が見えた。まだ歩いて1時間弱だが少し疲れたので駅前で休憩をした。
10分近く休憩し歩き始めるとすぐ左手に、間宿 柏原・本陣跡と書かれた碑が建っていた。私と同じで、お殿様も休憩していたのだ。

道の反対側斜め前には、立圓寺があった。ここには、富士山のすばらしさを賞賛した望嶽の碑があった。・・・文化5年(1808年)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。・・・(中央下の三角の石碑)しかし私は、残念ながら綺麗な富士山を見る事ができなかった。

寺を出て300m程で川が見えてきたが、ここは昭和放水路だ。

橋を渡ると増田平四郎の石像・石碑が建っていた。・・・大飢饉や水害から民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画し、明治2年(1869年)春に大排水路を完成させた。人びとは「スイホシ」と呼んだ。平四郎は何度も韮山代官所へ工事許可を願い出たり、勘定奉行へ籠訴し、計画から27年目の慶応元年(1867年)に着工した。大規模な堀割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡片もなく壊された。・・・
なお、「スイホシ」の跡に先程の「昭和放水路」が建設された。
また、この付近に江戸から33里の「沼田新田の一里塚」があったらしい。

石碑から少し先の右手には春耕道しるべ第一号と説明書きされた石碑があった。「村役場」と書かれている所を見ると、明治時代に建てられた石碑のようだ。

800m程歩くと檜交差点で、左へ別れている旧道へと入る。しばらく歩くと、右手に高橋勇吉と天文堀と説明書きされた石碑が建っていた。・・・三新田(大野・桧・田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、高橋勇吉が天保7年(1836年)から14年間の歳月を費やして、完成した排水用の堀割である。勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことからこの堀割のことを人びとは「天文堀」と呼んだ。・・・

目の前に大きな煙突が見えてきた。ほとんど真っ直ぐな道をひたすら歩いてきたが、これは遠くから見える目標物なので、近づくにつれ段々大きくなってきて、前へ進んでいる事を実感できた。

左手に「日本三大だるま市」で知られる妙法寺があった。境内に入ってみたいのだが、まだ少し歩かないといけないので階段を登る元気が出てこなかった。入口に綺麗な桜が咲いていたので写真を撮るだけで済ませた。
後ほどインターネットで各サイトを見せて頂くと、変わった建物がたくさん建っている事が分かり、「見に行けば良かった〜」と後悔した。

500m進むとJRの踏切があり渡った後、休憩をするため「JR吉原駅」へ足を向けた。少し疲れていたので20分程休憩し再び歩き始めた。「河合橋」を渡りその先を左へ。国道139号線と合流するが、すぐ先の1号線と新幹線のガード下を右斜め前に進む。道は緩やかに右カーブを描く。ガード下から約400mで、左手に左富士神社があった。

その先の信号を越えると左富士と書かれた石碑や広重の浮世絵入りの真新しい石碑があった。・・・東海道を東から西に行くとき、富士山は右手に美しい姿を見せますが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから”左富士”と呼ばれて、街道の名勝となりました。・・・

・・・わずかに残る一本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。・・・と書かれていた。この場所から富士山を見るのを楽しみにしていたが、残念ながら見えない!その松のバックに富士山が見えるのを頭の中で想像しながら、天気のいい日にまた訪れようと、その場を後にした。

左にカーブしながら500m程進むと左前方に橋が見えてきた。平家越え橋である。

橋の右手には平家越と書かれた石碑が建っていた。

その近くのは、先程と同じ様に説明が書かれた絵入りの石碑もあった。・・・治承4年(1180年)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。・・・

また、「東海道」と書かれた道標も、石碑の横に3本集められていた。

橋を渡り、400m程行くと右手に東木戸跡と書かれた碑があった。「やっと吉原宿に入ったぞ!」少し元気が出てきた。

岳南鉄道の踏切を越え、すぐにある東海道の説明看板で本陣の場所を確認した。商店街の中を進む事になるが、ゴールが近いので心に余裕ができたので、銀行の脇を右へ曲がり、天満宮を見に寄った。夕方の上、曇っているので写真には綺麗に写っていないが、桜が満開だった。

商店街に戻り、ゴール地点と決めていた本陣を探す。大概どこでも「本陣」と書かれた石碑や小さな看板があるので探してみたが見当たらない。しかし踏切近くの看板に書かれていた薬局を探し写真を撮影、この旅最長の一日が無事日暮れ前に終了した。


原宿〜吉原宿の地図