12.今須宿〜関ヶ原宿

その1  今須宿〜関ヶ原町松尾


壬申の乱もここだった


2007.4.28.(土)  天気 : 曇りのち雨のち晴れ

学校のすぐ先で左手へと曲がる。「国道21号線」と「JR東海道線」のガード下を潜る。「JR」下のトンネルは煉瓦造りで、とても味がある。

その先には、シャチホコが乗った立派な門が見えた。ここは、「青坂山(せいばんざん) 妙応寺」というお寺だ。「今須」は、このお寺の門前町だったらしい。
当寺は正平15年(1360)に、今須領主長江重景(ながえ しげかげ)が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院です。その後土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新前まで永く続きました。・・・
12時54分ここで少し休憩。5分程すると、先程から見掛けた史跡めぐりらしいお年寄りの団体が来られたので、足早にお寺を後にした。

街道には橋のたもとにまた常夜灯があり、その先は細い道がクネクネ。宿場町らしい雰囲気が出て、気分良く歩いた。

旧道は左に並行していた国道と合流。車の場合は「妙応寺」の看板にあるように、一度右に向いて左折し国道に直角に合流するが、歩きの場合は写真左下に見えるカーブミラー近くにある階段を上る。

「国道21号線」に出ると緩い上り坂だ。すぐ先右手に駐車スペースがあり、その東側隅に土がこんもり盛られて居るのが見えた。街道歩きには、すぐ一里塚だと分かる。復元された今須の一里塚跡だ。

国道に出てから約170mで左へ入る旧道へと入って行った。入口左側に「これより中山道」の石柱看板があるのでよく分かる。国道から続いている坂道を進むと今須峠の看板が目に入った。
此処峠の頂上は山中の常磐(ときわ)塚辺りの登り口より約1,000メートルの道程です。一条兼良(かねよし)はこの峠で、「堅城(けんじょう)と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぶ)すぎがたき所というべし」(藤川の記)と認(したた)めたように、この付近きっての険要(けんよう)の地でした。往時この付近には、茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として、賑わっていました。京方面に向かって約200メートル、一里塚を眺め峠を下ると、今須宿に入ります。
説明は私達とは逆に西に向かって歩いた場合の記述だった・・・

旧道に入ってから約560mで「JR東海道線」下り線の踏切を渡る。この付近は上下線が別々のトンネルを通っているので、単線の踏切となっている訳だ。
そしてその踏切から約460m歩くと左へ入る旧道が見える場所へとやってきた。この付近には家が建ち並び、峠を越えた感がある。右側の道を前から数人歩いて来たが、旧道に気づかず歩いて来たのだろうかと気遣いながら私達は旧道へと進んだ。

旧道に入りすぐ先(約30m)の所を左折し、少し奥に行くと左手に、「源義経」の母である、常磐御前の墓があった。しかし、同じ様な大きさの宝篋印塔二つ並んでいた。片方は乳母の「千種」のものだと思われるが・・・近所の方にも聞いてみたが、結局どちらが「常磐御前」のものなのか分からなかった。
都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常磐は、土賊に襲われて息を引取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。

その後ろに句碑がふたつ並んでいた。向かって左は「芭蕉」の句碑らしく、「義朝の 心に似たり 秋の風」と書かれているようだ。残念ながら、右の句碑は分からない・・・

街道に戻り、右手に川を見ながら150m程歩く。すると目の前に「東海道新幹線」の線路が横たわっていて、この下を潜った。
この付近は「東海道線」が関ヶ原越えのため線路がくねっている。そのため写真の左手付近で新幹線と在来線がほぼ直角の交差している。ここは珍しく在来線が新幹線の上をまたいでいる場所だ。

さて、街道はすぐ先で、先程別れた右側の太い道路に合流。右側に鶯の滝と書かれた案内看板を見つけた。
中世(鎌倉・室町期)の山中村は旅人も泊まる宿駅として栄えていました。近世(江戸期)では、関ヶ原・今須宿の間の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手(ふるて)屋等が軒を連ね、活気を帯びていたのです。ところで、この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。滝の高さは約五メートル。水量は豊かで冷気立ち込め年中鶯の鳴く、平坦地の滝として、街道の名所になっていました。
看板にはそうあったが、上から見たせいか、高さが5mもあるように見えない。また感動するような滝のようにも思われなかったのだが、それは私だけなのだろうか・・・

滝の反対側(街道左)を見ると地蔵堂が二つ仲良く並んでいた。向かって左が鴬瀧地蔵菩薩、右が黒血川地蔵尊となっていた。「鴬瀧」は分かるが、「黒血川」は分からない。しかし、すぐ先の説明書きで理解できた。

お地蔵さんから50m程行くと小さな川を渡ったが、そこに関ヶ原町による「黒血川」の説明看板があったのだ。
壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い様子を今に伝えています。この川は、青野ヶ原や関ヶ原の戦い等、古来軍事上屡々(しばしば)利用されてきました。
見ればどこにでも有るような見過ごしてしまう小さな川だ。一見、歴史上に何度か出てくるような川には見えない。

約230m進むと今度は左に上る階段が見えた。「若宮八幡神社」の参道で、よく見ると、JR線を越えて行かなくてはならないようだ。
そして、その上には関ヶ原の合戦に参戦した、「大谷吉継(吉隆)」の陣地跡が有るようだ。

神社には寄り道せず、街道を進む。約180mで歩道橋が見えた。ここで「国道21号線」を斜めに横切る。

歩道橋の上から見ると、国道から右斜めに進む旧街道がよく見えた。

その細い道を通り220m程進むと写真では見えないが「不破関 0.2K 5分」の看板が右手にあり、右折して急な下り坂を進んだ。

そして約120m行くと川に出た。関の藤川(藤古川)である。関ヶ原町の看板には・・・
この川は伊吹山麓に源を発し、せきしょの傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。壬申の乱(672年)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。
とあり、また関ヶ原町観光協会の看板には・・・
壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣しそこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下・山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。
とあった。

川を渡って少し上ると、また右側に説明看板があった。不破関西城門(ふわのせき にしきもん)と藤古川である。
不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘(かがんだんきゅう)上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約10〜20メートルの急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘(きょうあい)な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。
そして近くには、不破関守跡の看板も建っていた。

橋から150m程坂を上った所に、不破関跡があった。
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)の関とともに、古代律令制下の三関(さんげん)の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされています。延暦8年(789年)に停廃(ていはい)されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。

そして敷地内に入ると、芭蕉句碑があった。石には、「秋風や 薮も畠も 不破の関」と刻まれているらしく、名を馳せた関所も今は畠などになりはてたというような意味らしい。


上に戻る