少し歩いて左手に不破関関庁跡と兜掛石の説明看板があり、小さな小屋風の建物の中に石が置かれていた。
この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約1町(108メートル)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。ここに祀られている石は、壬申の乱の時、天武天皇が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同天皇使用の沓脱石があります。 |
看板にあったので畑の中を見回してみると、木と竹の簡単な柵に囲まれた所に沓脱石があった。
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200m程進み街道から右へ外れ、次の角をもう一度右へ回り込むと、大きな木が見えた。町の天然記念物になっている、 月見宮大杉(つきみのみやおおすぎ) だ。この杉の巨木は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定されます。平安の御代より、長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値します。その記録は幹の年輪に刻まれています。目通り約5.80m、高さ約25mと、具戸大神宮大杉に次ぐ、正に杉の横綱です。 そしてここは、福島正則陣跡でもあった場所でもある。
東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。 |
10分程休憩を取り14時29分、元来た道を戻り先へと進むと、130m程で「国道21号線」に合流。そして215m程行くと、左手に旗指物が何本も建っているのが見えた。西首塚だ。 関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。この上に江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。 お昼ご飯はまだ食べていない!「JR関ヶ原駅」周辺だったらどこか食べられる所があるだろう・・・
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300m歩き「関ヶ原西町交差点」を通過、そこから100mで左手に「十六銀行」があり、その先を左折し「八幡神社」へと向かった。そこには関ヶ原本陣跡スダジイの大木が立っていた。名前の通り、この附近に本陣があったようだ。
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街道に戻り、少し先左手に門が見えた。脇本陣跡だ。そして、「至道無難禅師生誕地」の石柱も建っている。 慶長8年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師(ぐどうこくし)の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です。禅師は国師の法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。なお寛文2年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います。当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。 その後、少し先の「関ヶ原駅前」信号を左に曲がり、「JR関ヶ原駅」へ行ってみて食堂を探したが無く。街道沿いにも無く、昼抜きの旅を続けた。 数年後、車で伊吹山に行く際、「レストラン伊吹」という所で食事をしたが、その後その場所が、駅前信号から270m戻った「関ヶ原西町」信号を南に150m行った所だと判明した。下調べが肝心だと、反省させられたが後の祭り・・・
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空腹を押さえながら街道に戻り、駅前信号すぐ左手に「旅館 桝屋」の看板。その看板に「創業永長元年」とある。西暦で言えば1096年だ。900年以上前からの由緒ある旅館だ。
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そして、街道右手すぐ先に案内看板が見えた。七つ井戸跡と書いてあった。
ここは昭和の初期まで、七つ井戸の一つがあった場所です。(東町若宮前、郵便局東、当地、藤井病院前、歩道橋前、宗徳寺前、愛宕神社参道前)関ヶ原は宝暦(1760)の大火をはじめ度々の火災に見舞われました。そこで、東町・西町間の街道南側に水の切れない井戸が掘られ、長い間防火・生活用水に利用されてきたのです。 |
妻と二人で、とぼとぼと街道を歩く。860m先で国道と別れ、左の旧道へと進んだ。
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右手には松が植えられ、街道らしい道だ。 左手は中山道・・・ではなく「JR東海道線」が並行して走っている。実は先程の「関ヶ原駅」から「大垣駅」の手前まで、勾配をさけるため別線が北方向へ迂回している(下り線のみ)が、これも「東海道線」だ。そう言えば、昔その別線に「新垂井」という駅があったのを記憶しているが、今は廃止されている。
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旧道に入り、350m進むと右に並行している国道にコンビニがあるのが見えた!昼食になるものを求めて急行。そしてカップヌードルを買い求め、家から持ってきたおにぎりと共に超遅い昼食とったのであった。時刻は15時40分、これで二人は生き返ったのだった。
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