10.小田原宿〜箱根宿



箱根まで無事登れるのか???



2006.03.21.(火)  天気 : 晴れ
小田原宿〜箱根宿の地図






寝台列車の銀河に乗り、妻と共に小田原に5:31到着した。今日は約束通り妻と箱根に向かって歩く。一人だと確かに不安だが、二人でもやはり不安!!!
JR小田原駅から小田原郵便局前を通り、前に寄ったなりわい交流館を右折し、今日の長旅のスタートを切った。少し歩くと前方に立ちはだかるように、山々が見えてきた。あれが箱根なのか!?(ちなみに前を歩いているのが、私の妻です。)

小田原城を模した建物の外郎(ういろう)屋を過ぎ、JRと箱根登山鉄道のガードを潜ると、右手居神神社が見えたが、鳥居近くの桜の木を見ると、ちらほらと咲きかけていた。もう春だっ!と思うと元気が出てきた。

神社を出てすぐ右の旧道に入る。すぐに公衆トイレがあったので利用させてもらった。、これから先、山の中に入って行くので、トイレが無い事が予想されたからだ。
700mほど歩くと再び1号線と合流。左に早川の流れが見え、小田原用水取入口があった。・・・小田原用水(早川上水)は、この地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家に北側を通水し、小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。・・・(写真は現在の取水口です。)

早川沿いにしばらく歩く。彼方に二子山らしき山が見える。今日のゴール地点にある芦ノ湖の手前の山だ。あそこまで歩けるのか???またまた不安になってきた。

小田原厚木道路のガード下を潜ってすぐ右の旧道を進む。箱根登山鉄道の踏切を渡るが、ここは線路幅の違う小田急も乗り入れしている。そのためレールは三本敷かれていた。こんなのを見るのは初めてなので、珍しそうにジロジロ見てしまった。オッと、今日は長丁場、こんな所で道草を食っている場合じゃない!

風祭駅前を通り過ぎると、右手に小田原の道祖神があり、その後ろの説明看板には風祭の一里塚と書かれていた。江戸から21番目の一里塚があった場所らしい。

宝泉寺の前や、小田原藩主の稲葉正則が父母や祖母春日局の霊を弔ったと言う紹太寺の近くを通り、1号線に出る。
そして源頼朝の馬が暴れて石の橋に蹄の跡を残したと言う駒ノ爪橋跡日本初の有料道路の説明書を見ながら歩く。そして、またまた右の旧道を少し歩く。1号線とすぐ合流し目の前に見える歩道橋を渡ると、箱根路の石碑があった。これほど間違いなく箱根へ向かっていることを証明してくれるものはない。

前方を見ると道路標識だ。左へ曲がると畑宿と書いてある。そう、早川に架かる橋は三枚橋だ。ここを渡るとから坂道が始まる。橋を渡ったら右手に座れそうな所があったので、休憩を取った。川を挟んで斜め前方には、箱根湯本駅が見えた。さあこれから本格的に坂道が始まる!気合いを入れて上り始める。が、しかし、大変な事が起こった!!妻の靴底ゴムが、ペロ〜ンと舌のように剥がれてしまったのだ!ブランド品だが、少し古かったのが原因のようだ。輪ゴムで応急処置をしてみたが、これからの急な坂を上れるのか?

輪ゴムでは余り効き目が無い。店があれば瞬間接着剤を買って、何とかくっ付けられるのだが。と思ったら、すぐコンビニがあった!!!早速アロンアルファを買って付けてみた。妻は靴のつま先に体重をかける。みごと、くっ付いた!(^^)!これは神の助けか、それとも日頃の行いが良いためなのか!?(後で気づくのだが、この先コンビニは無かった。)
靴も直り元気に坂を上るが、急な坂なのでやはり息が上がる。北条氏ゆかりの早雲寺を通り過ぎ、正眼寺に立ち寄った。曽我兄弟供養塔を見ながら息を整えた。

正眼寺を出て、しばらく歩くと旧箱根街道一里塚跡の碑があった。この塚は、江戸より22番目に当たる。

数十メートル歩くと、右に降りる石畳の道があった。看板には箱根旧街道入口と書いてある。・・・江戸幕府は、延宝8年(1680年)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。この先約255mはその面影を残しており、国の史跡に指定されている。・・・
また看板近くには、馬の飲み水桶があり、山から引かれた水をここに溜めて馬に飲ませていたようだ。

石畳は下った所の小さな猿橋を渡ると上り坂になり、先ほどまで歩いていた県道に合流する。そこからしばらく行くと、観音坂の石碑があった。そして近くのバス停に椅子があったので休憩させてもらった。

休憩を終え、約800m進むと派手な天聖院が見え、そこからまた約800m程の所に鎖雲寺があった。箱根霊験躄仇討と言う伝説に出てくる勝五郎とその妻初花の墓がある所らしい。墓は探さなかったが、初花堂が目についたのでデジカメに収めた。

鎖雲寺を出て須雲川橋を渡り、右へ左へカーブしながら県道を登って行く。途中に女転(ころ)し坂と書かれた説明看板があった。・・・箱根道の難所の一つであり急な坂道が長く、馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んでしまったのことから「女転し坂」と言われるようのなったようです。・・・今回県道を歩いたが、本当の女転し坂は先ほどの橋を渡った所から真っ直ぐ続いていた様だが、関東大震災で通れなくなったらしい。
そしてその先に右へ登る石段が見えた。女転し坂から続いていた割石坂である。・・・曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところから伝えられています。・・・とあった。

割石坂は階段の後、石畳になっていた。一度県道に戻るが、箱根旧街道と書かれた碑の所を、左へと石畳を下りて行く。大沢川まで一度下るが再び上りだ。この坂は大澤坂だ。

先ほどの割石坂は、一部明治時代に整備された石畳があるが、ここは江戸時代のままらしい。坂はキツく息が上がるが、本当に昔の東海道を私たちは歩いているんだっ!、という旅気分にさせてくれる坂道だ。

やっと坂を上りきると舗装された県道に出るが、そこが畑宿だ。畑宿本陣茗荷屋跡の碑が建っているが、ここは間の宿(あいのしゅく)で、簡単に言えば宿場と宿場の間にある休憩場所だ。残念ながら建物は大正元年の全村火災で焼失したらしいが、小さいながらも庭園だけは残っていた。
この近くには、名物の寄木細工の店が何軒かあった。私達は寄木会館へ入り見学し、ついでにトイレを借り、休憩をさせてもらった。

話は変わるが、今日の朝食は小田原駅で6時前に食べたパンと缶コーヒーだけだった。まだ11時前なので時間が早いが昼食にする事にした。またこの先は再び山なので食事に有り付けそうに無いからだ。二人で暖かい蕎麦を食べ箱根までのエネルギーを補充した。
食事を終え、旧道を歩き始めるとすぐ立派な畑宿の一里塚が見えてきた。近年造られた様子だがチャンと街道の両側に一対あり(写真は片方のみ)、盛土された塚の上に木も植えられていた。復元された物とは言え江戸時代そのままの塚に感動し、先へ歩く事を忘れて見入ってしまった。

一里塚を過ぎると再び石畳の道だ。だが写真では分かりにくいが、下に箱根新道が走っているため、宙づりの石畳なっていた。江戸時代の人が見たらどんな顔をするだろうと思いながら歩を進めた。

その先は正真正銘の石畳。どこから転げ落ちたのか大きな石が道の真ん中に居座っていた。この坂は西海子坂(さいかちざか)と言うらしい。・・・延宝8年(1680年)に改修された石畳だが、以前は雨や雪が降ったあと大変な悪路になるので竹を敷いていた。・・・

やっと石畳の上り坂から県道へ出たかと思ったが、県道も上り坂でつづら折れになっていた。また箱根新道も同じくつづら折れで県道の上を走ったり下を走ったりしている。その隙間から小田原の市街が遠くに見えた。こんなに歩いてきたのかと足を止め景色を眺めた。
私達は県道の二つ目のカーブのみ階段を登り、あとは県道を歩いた。

県道へ出て七つ目のカーブだったと思うが、橿木坂(かしのきざか)の石碑が見えた。「東海道名所日記」には道中一番の難所で「橿の木の、さかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの、涙こぼる」と書かれているらしい。ここまで登り坂ばかりで二人共結構疲れていたので、説明書きを読んで少しイヤになってきた。しかしここを越えなければ箱根には着かない!気合いを入れて上ることにした。

この坂は階段が続く。息苦しくなって何度か途中で立ち止まる。いつもは先にサッサと歩いて行く妻は、「ちょっと、待って!待って!」と言いながら後からついてくる。私は息が上がって立ち止まるが足は全然大丈夫だ。実は、一週間程前に階段が続く京都の「上醍醐寺」(西国三十三観音霊場11番札所として有名。)へ坂を上る練習に一人で行ってきたのだ。ざま〜見ろ!
無事階段を上り切り、見晴橋の所までやってきた。近くに見晴茶屋があるが寄らずに進んだ。

「雲助とよばれた人たち」と書かれた説明書きがあった。雲助とは悪い人の印象があるが、・・・問屋場では、人足を登録させ仕事を割当てていました・・・と書かれていて、・・・力がひじょうに強いこと。荷物の荷造りがすぐれていること。歌をうたうのが、じょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。・・・とあるから誰でもなれる職業ではなかったようだ。しかし、歌がうまいというのは面白いと思った。
この先は少し下りがあるものの、上りと階段が続く。そして猿滑坂と書かれた所へきた。この先は県道の上を渡る歩道橋となっていた。

歩道橋へ上るのに階段!そして渡りきるとまた急な階段!!足も疲れてきた。そろそろ休憩したい。しばらく歩くと県道と合流。山の上に少し雪が見えた。3月だが箱根はまだ冬だ。
そして追込坂の石碑があり再び旧道に入るが、近くに甘酒茶屋があり、そこで休憩をした。なお、追込坂は説明書きによると・・・フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。・・・と、あった。

休憩後旧道を歩き始めた。一応石畳になっているが、整備されていないためか荒れていた。これも現代の東海道の姿だ。

歩いていると於玉坂の石碑があったが、昔関所破りをした於玉がこの辺りで捕まり、処刑されたのでその名が付いたらしい。

県道を横切る。史跡箱根旧街道と書かれた石碑からは、一般の観光客が歩ける石畳になっていた。少し先に白水坂の石碑があった。

そして大きな岩が道端にある天ヶ石坂が見えてきた。そしてこの先ではやっとやっと上り坂も終わり、石畳も無くなった。

再び石畳の道になったが、今度は下りだ。そして「箱根八里は馬でも越すが、こすに越される大井川」の有名な箱根馬子唄の石碑があった。箱根宿まではもう上り坂は無いのでホッと一安心。妻と石碑の前で写真を撮り、ゆっくり休憩を取った。
しかし江戸時代からの石畳は、すぐに江戸を攻められないようにするためか、石がデコボコに敷かれている。また苔が生えている所もあり、足元を見ながら歩かないと何度も足をくじきそうになった。本当に重い荷物を背負わされた馬も箱根を越えたのか?と思いながら石碑を見つめ足を休めた。

休憩後、少し先に六道地蔵菩薩江之道と書かれたとても古そうな道標があった。そして説明看板に・・・この地点は江戸時代の東海道で鎌倉時代の東海道と交わるところです。・・・と書かれていた。

道標を越えた下りの石畳からは、眼前に芦ノ湖が見えてきた。小田原から歩いてきて見る景色なので、とても感動した。また江戸時代の人も同じように感動しただろうと思い、時代を超えて同じ気持ちになれるとても不思議な体験ができた。

なお、この坂は石碑にもあるように権現坂と言われる場所だ。

杉並木歩道橋を渡り、杉並木を歩く。途中にケンペルとバーニーの碑が建っていた。・・・ドイツ人のケンペルは、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。イギリス人のバーニーはケンペルの著「日本誌」の序文を引用「自然を大切にするように」と碑を建てました。・・・
杉並木を過ぎると、興福院というお寺の前に出てきた。お寺があるということは、やっと山の中を出たんだと実感した。

お寺の先はすぐ1号線で、左へ歩く。周りはお土産物屋さんが立ち並ぶ普通の観光地の姿だ。車やバスで来た観光客がたくさん歩いている。しかし、東海道を歩いてきた私達にとっては異様に思えた。箱根神社一の鳥居近くでおしるこを食べた。窓から芦ノ湖を見ながら休憩し、体を温めた。

鳥居近くには、地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めた賽の河原があり、道の反対側には身替わり地蔵がひっそりと建っていた。・・・宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、箱根を通りかかった時、平景時と間違えられ襲われた。幸いにも、かたわらにあった地蔵が身替わりになって命が助かった。それ以来景季の身替わり地蔵と呼んだ。・・・

まだ午後2時過ぎだ。まだ宿に行くには早いし、天気もいい。東海道とは関係無いが、二人で観光船に乗ることにした。窓から綺麗な景色を見ながら他の観光客と船にノンビリ乗っていると難所を歩いてきたのがウソのようだ。

観光船乗り場から200m程歩くと杉並木があるが、入口付近に箱根旧街道一里塚の石碑が建っていた。この一里塚は葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚と呼ばれていた。

ここからはみごとな杉並木が続く。午後4時前なので観光客もほとんど歩いていなかった。・・・徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。・・・と書かれていた。東海道は松並木という印象があるが、杉並木もいいものだ。

杉並木が終わり1号線と合流。100m程先を右折しすぐ左折すると、目の前に箱根関所が見えてきた。25年以上前に来たことがあるが、随分前なのでハッキリ覚えていないが、当時は門の様な物だけ見た記憶がある。今、関所全体を復元している最中の様だった。関所の中は見ることができるが、時間が遅かったので残念ながらだめだった。

関所を後にし、突き当たりの1号線を右折すると右手に箱根ホテルがあるが、ここは本陣はふやだった。そして敷地内には樹齢約400年の楓が現存していた。・・・この楓は「はふや」の門前に植えられてあったもの。明治中期の道路拡張の際他の全部の楓は切り払われてしまった。・・・

今日泊まる民宿さつき荘は、もう少し先だ。200m程先の箱根関所南交差点をまで歩き、東海道ではないが右折した。そのには東京箱根間往復大学駅伝競走往路ゴールの石碑があったので、私達もそこを今日のゴール地点とした。午後4時10分永く疲れた1日が無事終わった。ふ〜っ。


小田原宿〜箱根宿の地図