9.大磯宿〜小田原宿



今日は遠かった!



2006.03.08.(水)  天気 : 快晴
大磯宿〜小田原宿の地図






昨日は東海道歩きの後、江の島に渡らず半島から景色を楽しみ、満福寺で義経の腰越状を見て、江ノ電で長谷寺まで行った。すると長谷駅前で何やらヤクルトのCM撮影らしきことをしていたので、邪魔をしないように早々と長谷寺にお参りした。その後、鎌倉大仏・鶴岡八幡宮を見て楽しんだ。一度行って見たかった鎌倉なので、とてもいい時間を過ごせた。
そして、今日再び大磯駅からスタート!今回の旅も挫折せずにここまで来られた。次回妻と一緒に箱根越えをする約束を果たせそうだ。

昨日最後に見た鴫立庵辺りから1号線を歩く。大磯中学校付近から綺麗な松並木になっていた。・・・松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられたものです。・・・

しかしここも松食い虫の被害に遭っている。平成6年11月に枯れた老松(樹齢217年)の切り株が、時代の生き証人として保存されていた。この松が枯れずに残っていればと思うととても残念に思えた。

松並木を眺めながら歩いていると、左に伊藤公滄浪閣之舊蹟があった。初代総理大臣の伊藤博文公の旧邸で、現在はプリンスホテルの中華料理店となっている。

しばらく歩くと右手に西国三十三所巡礼講供養の碑があった。(碑の文字と変えています。)関西在住の私も車で妻と西国巡礼に行っているが、今から約300年前の宝永年間に、それも関東の地にこんな碑が有るとは、とても驚いた。

この先、切通橋交差点の次の信号を右手に入るが東海道のルートだが、少し道を外れ旧吉田茂邸を見に行くことにした。なお、ここの切通橋付近は、昔は崖で通りにくかったので、文字通り切り通しを作ったらしい。

少し先の左手に、広い屋敷の敷地らしいところがあり、柵越えに覗いてみたがよく見えなかった。銅像があるらしいのでその先の海岸へ向かう細い道を進んだが見つからない。途中、近所の方がおられたので聞いてみたが、よく分からない。ダメ元でそのまま進んで行くと左手上に何やら銅像らしきものが見えてきた。少し行くと階段があり、入口の門も開かれていた。登って行くとお目当ての吉田茂の銅像があった!青空と青い海に銅像は映えていた。

銅像を見た後、城山公園前交差点を入り、その公園のトイレを借りて小休憩。すぐ先の二股に別れる道を右へ行ってしまった。川を渡るはずが川沿いに道になっていたので、すぐ間違いに気が付いた。逆方向を向いて見ると右前方に橋が見えた。先ほどの分かれ道を左へ。今度はチャンと橋を渡った。
再び歩き始め500m程歩いたであろうか、道路左側の少し小高い所に、「江戸から十七里」と書かれた新しい碑があった。国府本郷の一里塚になるのだが、実際はここより約200mほど江戸よりにあったらしい。

双体道祖神に見送られ、1号線と合流。右手に六所神社と書かれた赤い鳥居があったが、この先はJRの線路。よく見ると地下道があったので、神社はその先らしい。古くからある東海道や参道も、明治以降の鉄道や道路に寸断されている。決して珍しいことではないのだが、何かもったいない気がする。

まだ3月上旬と言うのに、天気が良すぎて暑くなってきた。日陰に入るため道路左側を歩く。二宮町の道路標識と共に、右手には少し松並木が続く。二宮駅交差点から二宮駅に向かいトイレを拝借。国道を約800m進むと吾妻神社入口交差点に「旧東海道の名残り」と書かれているが、そこを右の旧道に入る。左に緩やかなカーブになっているところに梅澤橋の親柱が石碑のように建っていた。道路反対側が小公園のようになっていたので、ベンチで休憩。しかし暑い!今度はセーターを脱いだ。春は近い。

休憩後、歩き始めるとすぐ1号線と合流。少し歩くと今度は左の旧道に入る。その目印になるように史蹟東海道一里塚の跡が建っていた。江戸より十八里の梅沢一里塚である。

少し先の民家に松屋本陣の跡と書かれた碑があった。・・・ここは大磯宿と小田原宿の中間に位置する間の宿(あいのしゅく)で、多くの茶店や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていた。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていた。・・・

再び1号線と合流。押切橋を越えると小田原市の道路標識。やっと小田原だ!と思ったらまた二宮町。そして再び小田原市に入った。この辺りの境界は複雑に入り組んでいるらしい。そして史跡車坂と書かれた木碑が右に見えた。そして、太田道灌・源実朝・北林禅尼(阿仏尼)がここで詠んだ歌が書かれていた。

少し先には、従是大山道と書かれた鮮やかな大山道庚申塔もあった。

左手に西湘バイパス越えに海が見える。綺麗だがお腹が空いてきた。箱根駅伝で豚汁を振る舞っている「のんき亭」で昼食(豚汁は食べてませんが・・・)。元気を取り戻し2キロちょっと歩くと松並木と共に酒匂歩道橋が見えてきた。酒匂川も近い。

10分程歩くと、右手に立派な屋敷が見えてきた。表には社会福祉法人ゆりかご園と書かれている。歴史資料館か何かと思い、入って見たくなるような建物だった。

ゆりかご園から500m程進むと、やっと酒匂川に架かる酒匂橋が見えてきた。地図によると、橋を渡ってから右側のトヨタカローラの横を通って渡し場跡に出るようになっているが、人がすれ違うのがやっとというような細い道なので一度通り過ぎてしまった。地図を見ながらやっと道を見つけることができた。そして再び、城東高校前の交差点で1号線を横切り、1号線の左側旧道にでた。

地図だけでは不安になってきて、近所の人に聞きながら、新田義貞公首塚にたどり着いた。太平記に出てくる武将で、昔NHKの大河ドラマで名前を聞いた覚えがある。

旧道に戻り、常剱寺入口交差点で1号線に合流。そこから山王橋を越えたところまで歩くと、すぐ右に山王神社があった。・・・明応4年(1495年)2月北条早雲は相模の国を平定した。その頃の山王神社は北条家の郭内(かくない)で山王曲輪(くるわ)と言っていた。しかし暴浪のため、慶長18年(1613年)9月18日に現地に移された。また旧社地に星月夜ノ井戸があり、同様に移された。寛永元年(1624年)4月4日には、江戸初期の朱子学者林羅山(はやしらざん)が山王神社境内にて星月夜の詩を詠んだ。その詩にもあるように、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所となった。・・・

少し先には江戸口見付跡があった。またこの付近は、・・・戦国時代には、小田原北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構(そうがまえ)といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭が築かれたが、その総構の最も東部分に当たる。・・・

道の反対側には江戸口見付と共に一里塚阯の石碑もあった。これでやっと宿場内に入ってきたことになる。

宿場内に入ると、新宿町の石碑に町の由来も書かれていた。この後、小田原市内には、同様の石碑が数多く建てられていた。

新宿交差点を左折し、1号線と別れる。そして次の角を右に曲がると、蒲鉾屋が数軒並んでいた。

先ほどの各町の石碑を幾つか見ながら進むと、古清水旅館が左に見えてきた。ここは、旧脇本陣だったところだ。

その近くの公園のような所に、明治天皇小田原行在所阯の石碑が建っていた。ここは宮ノ前行在所跡で、清水金左衛門本陣のあった場所だ。

数軒先に、休憩場所と決めていた小田原宿なりわい交流館があった。この建物は、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」で建てられていて、とても風情がある。
中に入ると、交流館の方がお茶を出してくれた。車で来られた夫婦がおられ、私が日本橋から歩いてきたと言ったらビックリされていた。交流館の方は、「こんな人は良く来られるのですよ。」って感じで、慣れていますよーって感じで話されていた。それを聞いて、「私は変わり者じゃ無いなー」と一安心!?した。

交流館で約30分近く休憩し、小田原のパンフレットを貰い、もう一軒の本陣を探しに表に出た。少し先の左奥の方になりやら石碑が見えた。見に行って見ると、明治天皇聖蹟の石碑だ。説明書きには、明治天皇本町行在所跡と書かれており、片岡本陣跡だと分かった。
表の通り(国道1号線)に戻り道の先を見ると、まだ夕日には少し早い西の方向に屏風のように立ちはだかる箱根が見えた。今度は妻と二人旅だが、無事越えられるのか・・・不安が気持ちがドーンと私の心に、のし掛かってきたのだった。

今日は新幹線で帰るが(この旅では、結局この時だけ新幹線を利用することになる。)、まだ明るいので予定通り小田原城を外からだけだが見学した。残念ながら天守閣には閉門時間が迫っていたので、登ることを断念した。
小田原駅前で妻への土産に蒲鉾を買い、次回二人で小田原から出発できる義務を果たした達成感と、登山と言って過言ではない箱根までの旅の不安感を交錯させながら、新幹線で今回の旅を締めくくった。


大磯宿〜小田原宿の地図