8.平塚宿〜大磯宿



遠くて近い!?高麗山



2006.03.07.(火)  天気 : 曇り
平塚宿〜大磯宿の地図






JR平塚駅から今日のスタート地点、本陣跡に向かう途中、お菊塚に寄った。番町皿屋敷で有名なお菊さんの塚だ。説明書きによると・・・お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。この事件は元文5年(1740年)2月の出来事であったという。また他の話によると菊女は器量が良く小町と呼ばれていたが、24才のとき江戸で殺されたといわれている。死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と行って絶句したという。・・・

本陣に戻り歩き始めた。しばらく歩くと、右側に蔵風の外観に纏が外壁に描かれた「平塚市消防団第一分団」の建物が見えた。そこには平塚宿西組問屋場の蹟の碑があった。説明書きに・・・初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永3年(1635年)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。そのため隣接の八幡新宿が平塚宿に加宿され、問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は10日目交代で執務した。・・・とあった。

消防団の建物を真っ直ぐ進むのが東海道だが、ここを右折し、突き当たりの要法寺を左折してすぐ右手に、平塚の碑があった。近くに平塚の塚由来の説明書きがあり・・・桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857年)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んだ。・・・と、あった。

西組問屋場まで戻り、旧道を歩くと国道1号線にぶつかり左折。すぐ近くの古花水橋信号に、平塚宿京方見附之跡があった。平塚宿の西の外れになる。

そしてこの付近が、広重の描いた平塚宿の版画の場所らしい。前方に高麗山(こまやま)が見え、道が右にカーブしているので、今でもそのままの雰囲気が感じられた。

信号を越えると、すぐ大磯町に入る右。300m程進むと花水橋になるが、袂(たもと)に大磯八景の一、花水橋の夕照の石碑があった。まだ10時前だし、おまけに曇り空。夕照は見られ無いが、高麗山が一段と大きく見えてきた。しかし、本陣跡付近では山が行く手をさえぎる様に見えたが、東海道は山の左側を回り込んでいる。

橋を渡り400m程進むと、右手に高来神社が見えた。社は高麗山の麓にある。高麗山は日本橋を出発して初めて遠くから見えた目標物だ。平塚宿の本陣跡から見たときは、「今日は、あの山の向こうまで歩くのか〜。」と遠くに感じたが、見た目より簡単に着いた。それとも歩きなれて、簡単に思えたのだろうか!?

1号線を再び歩く。すぐ左に化粧坂公園があり、化粧坂の物語の石碑があった。・・・建久4年5月28日曽我兄弟は降りしきる雨の中で父の仇を討ったが兄の十郎は討たれ弟の五郎は召捕られてしまった。十郎の愛人虎御前はこれを悲しんで緑の黒髪を絶ち切って尼となり兄弟の冥福を祈った。僅か19才の虎女に涙したが、以来此の日には必ず雨が降り、虎が雨と名づけられ俳句の季語にもなっている。・・・

公園を出ると、すぐ右に別れていく登り坂が見えた。ここが先程の虎御前が住んでいた化粧坂で、朝な夕な水を汲んで化粧をしたという化粧井戸も、すぐあった。

その先には化粧坂一里塚があり、目立った形になっていないので、説明看板(写真中央)が無いと通り過ぎてしまう。

広重の版画を描いた看板もあり、大磯八景の一、化粧坂乃夜雨の石碑も建っていた。

道はJR東海道線で遮られていて、線路の下を潜る。化粧坂は松並木となっていて、いかにも江戸時代から残っているという感じの大松が斜めに生えていた。

近くに江戸見附御料傍示杭の説明看板があった。この付近が大磯宿の入口だったらしい。

旧道は再び1号線と合流し、現在の町中に入ってくる。左に延台寺があり、ここは虎御前が兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられているらしい。

延台寺の向かい辺りに北組問屋場の看板が見えた。

そして少し先に大磯宿小島本陣跡碑が建っていた。

すぐ先の少し奥まった所に地福寺があった。ここには島崎藤村の墓(写真右側)がある。

またまた元の道に戻る。すぐにある銀行の前に尾上本陣跡の碑があり、その石碑には大磯小学校発祥之地とも書かれていた。道を挟んで斜め向かいには石井本陣もあった様だが、それを現す物は何も無かった。

道は右にカーブしていくが、その左側を見ると大磯照ヶ崎海水浴場と書かれた石碑があった。この付近は日本初の海水浴場が開かれた所らしい。

少し先の左手の小高い所に新島襄先生終焉之地と書かれた石碑があった。ここ付近にあった百足屋(むかでや)旅館で、同志社大学設立の志半ばで新島襄が47才という若さで亡くなったのである。

今度は湘南発祥之地大磯と書かれた石碑が目に付いた。由来を書いた看板には・・・崇雪と言う人が寛文4年(1664年)頃西行法師の詠んだ名歌「こころなき 身にもあはれは しられけり 鴫立澤の 秋の夕暮」を慕って草庵をここに結び標石をたて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し「著盡(ああ)湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。・・・とあった。

その近くに鴫立庵が数段階段を下りた所にひっそりと建っていた。ここが先ほどの崇雪が作った草庵で、・・・元禄8年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。・・・と書かれていた。ちなみに私は前に落柿舎と無名庵に行ったことがある。別に俳句に興味がある訳でも無いのだが・・・
まだ11時半前だ。そして平塚からは27町(2.9km)。まだ時間も歩く元気もあるのだが、一度も行ったことの無い江の島や鎌倉に行きたくて今日の東海道はここまでだ。午後、鎌倉市内でリュックを担いだオジさんが、少し足を引きずりながら自慢の足で歩き回っているのだった。


平塚宿〜大磯宿の地図