3.川崎宿〜神奈川宿



まっすぐな道



2006.02.06.(月)  天気 : 曇り
川崎宿〜神奈川宿の地図






いつもの様に地下鉄と京急線を乗り継いで、京急川崎駅から佐藤本陣跡まで戻り再びスタートした。
しばらく歩くと京急八丁畷駅が見えてきた。京急の線路脇に「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と書かれた松尾芭蕉の句碑あった。伊賀へ帰る芭蕉を江戸から送ってきた門人たちと八丁畷の茶屋で休憩し、最後の別れを惜しんで弟子達が読んだ句に対し、返した句である。関係無いが、ちなみに私の実家は伊賀である。

線路は街道の右側を走っている。駅の手前の踏切を渡り、すぐ左折すると、今度は慰霊塔があった。江戸時代、震災や大火・洪水等により亡くなった身元不明の人達を八丁畷付近で埋葬したらしく、この付近で人骨が多く見つかったとの事だ。その人達の供養のため、昭和9年に建てたものだ。

ここから先は、道がまっすぐ延びている。この付近は、八丁(約870m)の間、畷(なわて)と言って道が田畑の中をまっすぐ延びていたので、八丁畷と呼ばれる様になったらしい。

まっすぐな道を進むと商店街に入り、左側に市場一里塚があった。説明書には日本橋から5里目と書いてあった。20km近く歩いたんだと自分に感心!碑は昭和8年6月に建てられた立派なものだ。

自分に感心しながら歩いていると、綺麗な鶴見川橋が見えてきた。最初の橋は慶長6年(1601年)頃架けられ、東海道と同じ位の歴史があるらしい。日本橋からは最初の大きな橋となり(多摩川は元禄元年から洪水のため渡し舟になったため)、旅人にはさぞ素晴らしく見えた事であろうと思った。なお、大正末期までは鶴見橋と言っていたらしい。

橋を渡った所に、旧東海道鶴見橋の碑と共に鶴見橋関門史蹟の碑があった。安政6年(1859年)6月の横浜開港と共に、外国人に危害を加える事を防ぐために作られたものの一つだ。

竹の皮に包んだ梅干しを売っていた信楽茶屋、咳の特効薬「苦楽丸」を売っていた鶴居堂のそれぞれの説明書を過ぎて、京急鶴見駅のガードをくぐり、右へ行くと、旧東海道鶴見覇王樹茶屋跡と書かれた石碑があった。

ベルロード商店街を歩いて行き、国道15号線を越えたらJR鶴見線のガードがあった。その右手のガード下には国道駅の改札があった。短いガードをくぐってみるとすぐ国道15号線だ。ガード下はとても古く、昭和の時代が感じられる。15号線側からの方がその古さがよく解るので、写真を撮ってみた。

旧道のガードをくぐった先は生麦の魚河岸だ。魚屋さんが何軒もある風景は、田舎者の私は初めて見る景色だ。歩いていたら、おかみさん威勢のいい声が聞こえてきた。「○○さん、もう帰っちゃった?まだ間に合うかな?車で駅までひとっ走り行って届けてくるね!」

魚河岸を過ぎると道念稲荷があり、「蛇も蚊も」と書かれた横浜市指定無形民族文化財の碑があった。

キリンビールの工場を越え、国道15号線と合流してすぐに生麦事件の石碑があった。幕末、薩摩の島津久光の行列を横切ろうとしたイギリス人4名が切られ、その中の商人リチャードソンが落命した遭難の碑である。ちなみに発生現場は、旧道を江戸に戻った所で、歩いてくる途中に早川松山の絵が入った看板を見かけた。

しばらく車の騒音を聞きながら国道を歩く。京急新子安駅付近を過ぎた公園で一休みし、再度国道歩き・・・横浜開港当時、外国の領事館にされるのを嫌い本堂の屋根をはがし、修理中であるのでとの口実で幕府の命令を断った良泉寺を過ぎ滝の川まできた。この付近に本陣が2ヶ所あったらしいが探しても解らなかった。橋を渡って右へ曲がり、少し川沿いに歩いて行くと、滝の橋と本陣跡と書かれた看板があったので、それで我慢した。

本陣跡の文字を見てホッとし、再び休憩。国道をまた歩き出したが、小学校を過ぎすぐ右斜めへ登る旧道があった。疲れた足で宮前商店街の登り坂は少し堪えた。

途中、源頼朝が安房国の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている洲崎大神があった。

坂を登り切った所に京急神奈川駅があった。13時だが今日はここまでだ。足が言う事を聞いてくれない!でも食事ができる所が近くに無さそうなので、横浜駅まで歩いて行く事にした。
美味しいトンカツを食べて満足したが、お茶のお代わりを言っても店員に忘れられてしまった私であった・・・


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