2.品川宿〜川崎宿



神奈川県へ



2006.02.05.(日)  天気 : 晴天
品川宿〜川崎宿の地図






無事2日目の朝を迎えた。日頃の行いが良いのか、今日も良い天気だ!日本橋近くのビジネスホテルから地下鉄と京急を乗り継いで、新馬場駅まで戻ってきた。
昨日のゴール地点である品川橋へ戻る前に、近くの荏原神社に寄った。今年の春は遅れている様だが、ここの梅は膨らんでいた。

品川橋を9時に出発し、旅を再開した。品川の閻魔様と言われている長徳寺、そして青物横丁通りを越えると品川寺(ほんせんじ)が右手にあった。大仏様と言って過言でない大きなお地蔵さんが座っている。江戸時代から東海道を行き交う旅人の安全を願いながら見つめていたお地蔵さんに、私も見守られながら先へ進んだ。

京急・青物横丁駅、鮫洲駅近くを通り過ぎる。気が付くと後ろからずーっと廃品回収業者の車のスピーカーからのやかましい声が聞こえている。業者の車は歩くスピードよりゆっくりなのだが、私は立ち止まってあちこち見ながら歩いているのですぐ追いつかれる。この騒音は、徒歩の旅ならではの発見だ。
そうこうしている内に、浜川橋に着いた。この先の鈴ヶ森で処刑される罪人とひそかに見送りに来た親族らがこの橋の上で共に涙を流しながら別れたという事から、別名涙橋と呼ばれるようになったらしい。

浜川橋を渡り、鈴ヶ森中学校を越え第一京浜国道との合流地点に鈴ヶ森刑場遺跡があった。八百屋お七らが処刑された火炙台(ひあぶりだい)や、丸橋忠弥らが処刑された磔台(はりつけだい)があり、説明書に生々しく処刑の様子が書かれていた。隣接の大経寺から丁度お経の声がBGM?として聞こえていたので、余計に背筋が寒くなってきた。ちなみにお寺の向かいに葬儀屋さんもあった。

第一京浜(国道15号線)を歩く。しばらく狭い道を歩いていたので、広い国道に出て東京に居る事を思い出した感じだ。
京急大森海岸駅を越え、交番の手前を左に三原通りへと入って行く。歩道上の石の椅子に座って休憩後内川橋にたどり着いた。ここは羽田道の出発点になるが、近くに「駿河屋」という旅宿があったので、現在の「するがや通り」という名が残されている・・・と説明が書かれた石碑が橋のたもとにあった。

しばらく旧道を歩くと、再び第一京浜国道へ。ここからは、ずーっと国道を車の騒音を聞きながら歩く事になる。歩道は広いが、時々斜めになっている部分では、また痛くなってきた左ひざに衝撃が走る。しかし国道の右側には平行して京急が走っている。いつでもリタイア出来るぞ!と安心しながら!?歩き続けた。
そして梅屋敷公園までやっとたどり着いた。ここでひと休み。晴天なので暖かい感じがしたが、公園内の池は凍り付いていた。ここの梅は、まだつぼみが堅く、やはり今は真冬だと改めて感じた。

途中で食事を済ませ、再び国道を歩く。しばらく行くと左手に六郷神社が見えて来た。明治9年までは六郷八幡宮と言っていたらしい。ここは源氏ゆかりの神社で、源頼朝が奉献した手水石や家臣の梶原景時が寄進した太鼓橋があった。

東海道は、六郷神社前から国道と平行した旧道になっている。突き当たりを右に曲がり第一京浜をくぐった公園に、旧六郷橋の橋門と親柱がある。その横の階段を登ると六郷橋の歩道につながっている。新しい橋の親柱には、渡し船がモニュメントとして上に乗っている。

多摩川に架かる六郷橋の途中に神奈川県川崎市の看板があった。都県境を越えると思うと感慨深くなる。歩くのが苦手な私にとっては、涙が出そうになると言っても過言では無い位の感激だ。でも実際は2つ目の宿場にも、まだ着いていない・・・

橋を渡った左の方に六郷の渡しの説明書があった。江戸時代初期には橋が架けられていたが、大洪水で流された後は船渡しとなったらしい。
説明書の横には、明治天皇六郷渡御碑や長十郎梨のふるさとの説明書があった。

説明書を回れ右し国道左下の道を歩くが、その下には京急大師線が走る。が、すぐ右に国道をくぐって旧道が続く。
六郷橋を渡った所からもう川崎宿になっている様で、歩いてすぐに田中本陣跡が右手にあった。

川崎宿内には、旧東海道の石碑があちこちに建てられている。それを目印に歩を進めると、宗三寺の看板のさきに中の本陣跡があった。

少し先の砂子交差点を渡った所に三菱UFJ信託銀行があるが、その付近が佐藤本陣跡らしい。やっと今日のゴール地点だ。
私は、再び痛くなっている足をひきずりながら、近くの京急川崎駅へ向かった。何とか2つ目の宿場まで踏破したが、明日は歩けるのか不安になりながら電車で宿泊地の日本橋へと戻って行った。


品川宿〜川崎宿の地図